論説 No.3(2006.4)五十嵐 仁(法政大学大原社会問題研究所)
いま、なぜ、「活憲」なのか
はじめに
昨年末、私は『活憲―「特上の国」づくりをめざして』(績文堂・山吹書店)という著作を上梓しました。この本は、私のHPである「五十嵐仁の転成仁語」
(http://sp.mt.tama.hosei.ac.jp/users/igajin/home2.htm)に書いてきた内容を取捨選択し、整理してまとめたものです。その意味では、最初から「活憲」の主張を意
図したものではありませんでした。
しかし、まとめてみると、その内容のほとんどは、改憲論の誤りを明らかにして反論あるいは反駁し、憲法が規定する内容の実現によってその規範力を回復することを
主張するものでした。それを読んでいてひらめいたのが「活憲」という言葉です。「そうだ。この本は『活憲』を主張しているのだ」と、その時、思い至ったのです。
「活憲」という言葉は、私の知る限り、伊藤千尋さんが、「論憲の前に『活憲』を」 (『朝日新聞』2000年3月26日付)という記事で用いたのが最初だと思いま
す。「活憲21ながさき」という団体も2000年に結成されていますし、調べてみたら、「活憲サンバ」(9love)というものまであります。インターネットでは、加藤哲郎
さんの「ネチズン・カレッジ」が早くからこの用語を紹介していました。
したがって、「活憲」という言葉は、私の独創ではありません。しかし、誰が最初に使ったということよりも、その用語によって何が主張され、どのような新しさが生
み出されるのか、ということの方が重要でしょう。問題は、この言葉によって何が意図されているのか、ということなのですから……。
ということで、「活憲」によって何を明らかにしようとしたのか、いま、なぜ、「活憲」なのか、について述べることにしましょう。
「活憲」論の意義と射程
私は、拙著『活憲』の「はじめに」で、「『憲法は護らなければならない。しかし、それだけでいいのか?』 本書は、この疑問から出発しています。そして、『護
るだけでなく、日々の暮らしに活かすことこそ必要だ』というのが、本書の回答です」と書きました。 「憲法を暮らしに活かす」 どこかで聞いた言葉でしょう。そうです。京都の蜷川革新府政の時代に、府の庁舎から下げられていたという垂れ幕に書かれていた言葉とほとんど同じです。
ということは、かつての護憲運動でも、同じことが主張されていたことになります。それを、なぜ、わざわざ「活憲」と言い換えて、今になってから、改めて強調しようというのでしょうか。
その理由は、第1に現実があまりに大きく変わってきてしまっているからです。日本の軍事費はアメリカに次ぐ第2グループに属しており、すでに日本は「軽武装国家」ではありません。このような既成事実化が進み世界有数の軍事大国となったために、憲法の条文と現実との乖離は極大化しています。「改憲」を阻むだけではこの「反憲法的現実」が残ることになります。憲法第9条の条文を護るだけでなく、この現実を変えなければなりません。
憲法96条では、国会が発議した憲法改正案につき、国民投票で「過半数の賛成」による国民の承認を、憲法改正のための要件としている。この「過半数」の判定をどうするかが問題となる。学説や制度上ではいくつかの捉え方があるなかで、前記二者の法案等では、「有効投票総数の過半数」という、一番狭めた基準を採る。そのほかに、憲法改正国民投票に投票した選挙人総数の過半数と捉える型と、また、有権者総数の過半数とする型もある。国民意思の尊重という観点からすると、第三の型は確実であるが、現実の運用では、きびしい基準とする評価もある。他方、第一の型では、白票等を無効投票とした上で、それらを除いた有効投票総数の過半数で、判定しようとする。この捉え方については、国民投票に参加したが、積極的に賛成せず、白票を投じた者を無効票とする扱い方に強い疑問が出される。これにたいし、第二の型の投票総数過半数説の立場からは、憲法改正という国政の重要問題については、積極的に賛成の意思表示をした者がその投票総数の過半数である必要があるとして、今日の日本の憲法学説では有力になっている。
このことに関しさらに問題なのは、前記二者の法案等では、最低投票率(国民投票の成立案件)が定められていないことである。前述の「過半数」の捉え方と結びつき、そこでは、たとえば多くの有権者が棄権すれば、きわめて少ない投票率、したがって、低い有権者比で憲法改正がなされる可能性が考えられる。しかし、それでは法的安定性が低く、政治的、社会的に将来に禍根を残すことになる。それを防ぐためには、国民投票の最低投票率につき、たとえば有権者の二分の一というような限定付けが必要と考えられる。
第2に、このように憲法の規定と現実との乖離が極大化したために、憲法の規範力が大きく低下してしまいました。そのために、「現実に合わせて憲法を変えた方が良いのではないか」という意見が強まっています。これを私は「常識的改憲論」と呼んでいますが、これらの人々が目的としているのは、「憲法の規範力を回復させる」ことであって、「戦争できる国にしたい」ということではありません。シビリアンコントロールを強めて、軍事化に歯止めをかけたいという人々も含まれています。これらの「常識的改憲論」を説得するためには、憲法を現実に合わせるのではなく、現実を憲法に合わせることこそ必要だということを納得してもらう必要があります。このような主張こそ、「活憲」にほかなりません。
第3に、改憲反対運動の印象を一変させ、日本の将来構想やビジョンを打ち出すものとする必要があります。「護る」というのでは、保守的で受動的な印象を拭えません。これを革新的で攻勢的なものに転換するためには、若者にも受け入れられる新しいコンセプトが必要です。また、明文改憲を阻止し、実質的な改憲動向に反撃するだけでなく、「反憲法的現実」の是正と新しい「憲法的現実」の形成に取り組まなければならないでしょう。これを、もう一つの日本=「特上の国」づくりとして、私は位置づけています。このようにして、改憲阻止の運動を、21世紀における将来ビジョンを競い合うものへと変えていくことが必要なのではないでしょうか。
むすび
これまでの日本は、軍事経済を拒否して民生主導で戦後復興を進め、「軍」による死者を出さずに平和を維持してきました。その意味では、戦後の日本は「上の国」であったと思います。その「上の国」を、憲法を変えて戦争ができる「普通の国」=「並の国」に引きずり降ろしてしまおうというのが、今日の改憲構想です。これに対抗して、「上の国」から「特上の国」になろうという呼びかけとそのための構想こそ、「活憲」論にほかなりません。
平和国家としてのブランドである憲法第9条を日本の「政治的資産」として活かし、国際緊急救助隊の創設によって赤十字のような「レスキュー国家」に生まれ変わることが必要です。非軍事的領域での国際貢献によって世界の平和と安全にとって有用で有益な国になることこそ、21世紀において日本がめざすべき目標にほかなりません。そうなれば、どの国も日本を攻撃しようなどとは考えなくなるでしょう。
拙著『活憲』は、このような将来ビジョンについても明らかにしています。ご一読の上、ゼミや講義の参考文献として利用していただければ幸いです。お申し込みはinfoyamabuki@yahoo.co.jpまでどうぞ。
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